初詣に宗教的な意味はある?ルーツはどこ?行ってはいけない人がいるの?

季節の行事
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お正月には初詣をするのが、年中行事になっている方も少なくないでしょう。

でも、中には初詣に行けないという人もいます。どうしてなのでしょうか?それって、ホントに意味があるのでしょうか?

そんな疑問を持ったら、この記事を読んでみて下さい。

初詣に宗教的な意味はあるの?

お正月にお寺や神社に参拝すると、新しい一年がはじまることを実感します。ふだんは信心深くない人でも、初詣はかかさず毎年行っている人は多いのではないでしょうか。

「初詣」という言葉は、明治時代に生まれた比較的新しい言葉です。

初詣とは鉄道の誕生と深く関わりながら明治中期に成立した近代の新しい参詣スタイルである。その成立からしばらくたった明治末期になって、後を追うように俳句の世界で「初詣」という季語が登場したのである。

汽車に乗れて手軽に郊外散策を楽しめるという川崎大師特有の行楽的魅力にひきつけられた人々が、従来のルールを気にせずに正月休みに参詣につめかけるようになったのである。
(シノドス アカデミックジャーナリズム)

引用元はこちらです>>>
初詣は新しい参詣スタイル!?――鉄道が生んだ伝統行事 平山昇 / 歴史学

シノドスアカデミックジャーナリズムの記事は「初詣」という言葉の誕生を端的に説明しています。平山昇さんによれば、恵方詣りとも1月21日の初縁日とも関係ない正月の川崎大師参詣を指すのに、「初詣」という表現が誕生したのだそうです。

くわしくはこちらの著作の書かれています。

江戸時代までの社寺参詣には、いつどこに詣るかについて細かいルールがあって、このルールに従って参詣することでご利益があるとされていました。

このルールだと正月の参拝は、氏神の社や菩提寺にお参りする「元日詣」か、恵方の方角にある寺社にお参りする「恵方詣」のどちらかでした。

一般の人が川崎大師を詣るのは初縁日の1月21日というのがそれまでの常識です。川崎大師が東京からみて恵方にあたるのは5年に2回しかないので、毎年正月に大勢の人が押しかけるということは、鉄道ができるまではなかったことでした。

今でも本当にご利益を受けるには、神社参詣のルールがあります。ご興味のある方は、こちらの記事に詳しく書いていますので、ぜひお読み下さい。

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また、恵方についてはこちらの記事でくわしく書いたので、興味のある方はぜひお読み下さい。

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当時、汽車に乗って出かけるというのは、今でいえば年に一回テーマパークで遊び倒すようなハレの日という感覚だったそうです。

川崎大師の賑わいを知った各地の鉄道会社は、明治以降昭和のはじめ頃まで参詣客を狙って有名な寺社仏閣にアクセスできる鉄道の敷設に邁進しました。成田山新勝寺や伊勢神宮も、鉄道の開通によって大勢の参詣客が集まるようになっていったそうです。

今、初詣が国民的な季節の風物詩になっているのは、当時の鉄道会社の営業戦略によるところも少なからずあるようです。このように初詣というのは、宗教的な儀式とは関係なく、正月に行楽気分で寺社仏閣に参詣するイベントとして成立しています。

こうした歴史的な経緯をみると、「初詣」に宗教的な意味はあまりないといえるのではないでしょうか。

初詣のルーツはどこにあるの?

初詣という言葉は明治時代にできましたが、正月に神社に参詣する習慣自体は、「年籠り」といって古くから続いているものです。さかのぼると、初詣のルーツは年籠りにあります。

年籠りは、家長が氏神の社に大晦日の夜から元日の朝まで籠もって、一族の繁栄を祈願するものでした。時代が下ってこの習慣は、大晦日の夜の「除夜詣」と元日の朝の「元日詣」の2回に分かれ、元日詣が明治時代になって初詣に変容していったと考えられています。

古来からの日本の信仰は、土地土地の神々に共同体の安寧を祈願する土着信仰で、神道に連なる系譜です。年籠りは由来をみれば「神道」の儀式ですが、今の初詣は神社にも、お寺にもお参りをします。

これは仏教伝来以降、神道と仏教が持ちつ持たれつの関係をつくっていったからでしょう。

八百万の神という表現にあらわれているように神道は多神教で、神様を自然と一体のものとしてみます。自然の中に神が宿り、神と人を結ぶのが祭祀の儀式、祭祀を執り行う場が神社という聖域になっています。

6世紀に中国から伝来した仏教は、普遍的な仏に救いを求める信仰で多神教とは異質の宗教観をもっています。しかし、神道の側から仏教をみると、仏も多くの神々と同列の神様として位置づけられました。仏教がさしたる摩擦を起こさずに日本の社会に浸透したのには、仏も神様の列に並べる柔軟性に理由があったのかもしれません。

歴史をみると、政治と宗教は不即不離の関係にあります。時の権力者は自らの権威や正統を広く示すために、宗教を利用し、宗教側もそうした権勢者のニーズに応えつつ、勢力を広げてきました。

そうした政治とのせめぎ合いの中で、神道と仏教は提携関係を結んでいます。710年の興福寺‐春日大社をはじめとして、東大寺‐手向山八幡宮、延暦寺‐日吉大社、金剛峯寺‐丹生神社、東寺‐伏見稲荷大社など、神社は寺院の守護神、鎮守とされました。

このように、6世紀頃からは神仏混淆(しんぶつこんこう)、さらに神仏習合(しんぶつしゅうごう)と呼ばれるような神様と仏様を一体の存在とみなす宗教観が広まり、明治維新で政府が神仏分離令を発して、神道と仏教を分けるようになるまで続いています。

ちなみに初詣のはしりとされるのは、治承五年(1181年)に鎌倉の鶴岡若宮(今の由比若宮=元八幡)に元日詣をした源頼朝です。

鶴岡八幡宮は頼朝が京都の石清水八幡宮を鎌倉に勧請して、武家の都市造りの中心に据えたものです。頼朝の「初詣」は明確に政治的な目的をもった宗教的儀式でした。

初詣に行ってはいけない人がいるの?

真言宗のお坊さんは檀家さんから、違う宗派のお寺や神社にお参りしてもいいものか、という質問をよく受けるそうです。
答えは、全然かまいません、ということでした。

神社へのお参りも、そもそも仏教を取り込んでしまうほど開放的な神道ですから、どなたがお越しになってもかまわないということです。

初詣を受ける側から、この宗教、宗派の参詣を受けないということはありません。

一部の仏教の宗派、浄土真宗や日蓮宗不受不施派には、他の宗派のお寺や神社で手を合わせてはいけないという決まりはあるそうです。でも、自分の宗派のお寺に初詣するし、そこでは手も合わせますから、初詣に行ってはいけないことにはなりませんし、他の宗派、神社に行っても、手を合わせて拝まなければ、それは禁を冒したことにはなりません。

キリスト教の人は礼拝やミサがあるので、あまり初詣には行かないかもしれません。でも、お寺や神社に行くことを禁じているわけではありません。

イスラム教は、そもそも暦がちがっていて、ラマダンの日がお正月にあたります。ユダヤ教のお正月は9月だし、ヒンドゥ教は11月ですから、こうした宗教を信仰する人には、1月1日はふつうの日です。お祝いする日ではありません。

こうしてみると、主な宗教の中で初詣に行ってはいけないことになっている宗教はない、と言ってもいいと思います。

まとめ

いかがでしょうか?

今や初詣は、物見遊山的な気分で楽しむものになっています。宗教的な意味合いはまずありません。

歴史的にみれば、神道も仏教もわりと大らかで、過去にあった時の権力者との抗争を除けば、人を排斥するようなこともありません。信仰信条にかかわらず、初詣をしてはいけない理由はないのです。

でも、もし大事な人が「自分は初詣に行けない」というならば、それを頭ごなしに否定することはしない下さい。どうしてそう思うのか、よく話をして耳を傾けてあげましょう。

初詣云々で新年早々喧嘩してしまうのは、いささかもったいない感じがします。大きな心持ちで、穏やかな年をお迎え下さいね!

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