瀬古俊彦さんの出身高校や学歴 現役時代の成績がスゴい!

マラソン 紳士録・淑女録
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こんにちは!

テレビで見る瀬古俊彦さんは

ダジャレが好きな明るいオジサンですが

現役時代は「走る修行僧」とも呼ばれた

とてもストイックな選手でした。

 

現役時代の瀬古選手は

ラストスパートで勝つランナーでした。

 

高校3年生のときのインターハイ1500m決勝で

最後の1周にひとりだけ

別次元のスパートをかけて圧勝したシーンは

今でもよく覚えています。

 

全部で15レース出場したマラソンでは

10戦で優勝、1レースで準優勝という

とんでもない成績をあげています。

ラストスパートの切れ味は

世界最高といわれていました。

 

トラック勝負でアフリカ選手に勝てる日本人

今後も出てこないのではないでしょうか。

 

そんなスゴいランナーだった瀬古俊彦さんの

  • 出身高校や学歴
  • 現役時代の成績

について調べました。

 

記事の途中には

瀬古選手が驚異的なラストスパートを見せる

1983年の福岡国際マラソン

の動画も載せています。

合わせてご覧になって下さい!

出身高校や学歴

早速ですが、

まずは瀬古俊彦さんの簡単なプロフィールです。

名前瀬古俊彦(せこ としひこ)
生年月日1956年7月15日
出身地三重県桑名市
経歴元陸上競技選手・指導者
日本陸上競技連盟理事
マラソン強化戦略プロジェクトリーダー

瀬古俊彦さんは、1980年代に大活躍した

日本を代表する名マラソンランナーです。

 

元々は野球少年だった瀬古さんですが

足の速さを見込まれて出場した陸上部の大会で

当時の三重県記録で優勝したことから

陸上競技に転向することになりました。

 

野球でも強豪から誘われていたという瀬古少年は

陸上の強豪校四日市中央工業高校に進み

1年から中距離選手として頭角をあらわします。

 

3年のときには

800m、1500m、5000mの3競技

1日のうちに予選・決勝の7レースに出場し

800、1500で優勝、5000でも準優勝という

とんでもない記録をのこしています。

 

スピードも持久力も兼ね備えた逸材として

大学陸上界から注目を浴びていた瀬古さんは

中央大学への進学が決まりかけていました。

 

でもそれを断り、

当時はスポーツ推薦の枠のなかった早稲田大学

一般入試で受験します。

現役では合格できなかった瀬古さんですが

1年の浪人後、一般受験で見事に

早稲田大学教育学部に合格しました。

 

今でこそ高校でトップクラスのアスリートは

スポーツ推薦で早稲田大学に入学できますが

当時は瀬古さんほどの実績をもってしても

スポーツでは入れない学校でした。

 

早稲田大学の陸上部は、

のちに強い師弟関係を結ぶことになる

中村清監督が指導していました。

これが、陸上名門校の中央大学を蹴っても

早稲田に入学したかった理由なんですね。

 

実は瀬古さん、

意外というと失礼ですが相当高いレベルで

文武両道を実現した人です。

 

早稲田大学に入ってからは

中村監督の自宅横のアパートに下宿して

1日中監督の監視下でキビシイ練習に

明け暮れることになります。

 

ここから

名伯楽と名ランナーの快進撃が始まりました。

現役時代の成績

早稲田大学時代の瀬古さんは

寝ても覚めても陸上競技という生活を送ります。

箱根駅伝には「花の2区」で1年から出場し、

3、4年のときは区間新記録を更新しています。

 

なんといってもスゴイのが

1年生で箱根駅伝の翌月に初マラソンを走り

10位に入っていることです。

同年12月には福岡国際マラソンに出場し

全体の5位、日本人トップで走っています。

初優勝は翌年12月の同大会で

マラソン3回目、3年生のときです。

 

福岡国際マラソン大会は、

世界でもトップクラスのマラソンランナーが

毎回参加しています。

瀬古さんは福岡を4回制覇していますが

毎年開催される同じ国際マラソン大会で

4回優勝した選手は

瀬古さんだけではないでしょうか。

 

瀬古さんの凄さがよくわかる動画があったので

掲載します。

ラスト100mを12秒で走った瀬古選手

15回中10回も優勝している瀬古さんですが

オリンピックのレースだけは

勝利と縁がありませんでした。

 

1980年のモスクワ五輪は

ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して

西側諸国が五輪をボイコットしたため

代表に選ばれていながら出場できませんでした。

 

1979年4月のボストンマラソンで準優勝し

12月の福岡国際で2連覇をしていた瀬古さんは

モスクワ五輪の金メダル候補でした。

のちに、モスクワで走れなかったことが

五輪のメダルに縁がなかった理由

ともいわれています。

 

モスクワの次、1984年のロサンゼルス五輪は

初の夏のレースになり、

本人いわく調整に失敗したため14位におわり

共に出場した宋猛選手の後塵を拝します。

 

最後のマラソンとなった88年のソウル五輪も

9位とメダルどころか入賞もできませんでした。


全15レースの記録をみるとわかるのですが

オリンピックだけ不調になるんですね。

タイムも初優勝前の2レースを除くと

ワースト1、2です。

 

全15レースの記録

1977.02京都2:26:0010位
1977.12福岡国際2:15:015位
1978.12福岡国際2:10:21優勝
1979.04ボストン2:10:122位
1979.12福岡国際2:10:35優勝
1980.12福岡国際2:09:45優勝
1981.04ボストン2:09:26優勝
1983.02東京国際2:08:38優勝
1983.12福岡国際2:08:52優勝
1984.08ロス五輪2:14:1314位
1986.04ロンドン2:10:02優勝
1986.10シカゴ2:08:27優勝
1987.04ボストン2:11:50優勝
1988.03びわ湖毎日2:12:41優勝
1988.10ソウル五輪2:13:419位

ファンやメディアのメダル期待が

重すぎたのでしょうか?

その辺は、トップに立った人にしか

わからないことなのかもしれません。

 

オリンピックでは勝てなかった瀬古さんですが

トラックの長距離種目では

30年以上破られていない日本記録を

4つ持っています。

今でも日本屈指の長距離ランナーです。

 

ソウル五輪後、現役を引退した瀬古さんは

SB食品や母校早稲田大学の監督を務めます。

早稲田では全日本大学駅伝4連覇や

第69回箱根駅伝総合優勝など好成績を収めます。

 

現在の瀬古俊彦さんは、

自身の為しえなかったオリンピックのメダルを

東京五輪で日本選手が獲得することを目指して

マラソン強化戦略プロジェクトリーダーを

務めています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

この記事では瀬古俊彦さんに関する

  • 出身高校や学歴
  • 現役時代・指導者時代の成績

についてお伝えしました。

 

瀬古俊彦さんがプロジェクトリーダーを務める

マラソンは東京オリンピックの開催場所や

スタート時間をめぐってゴタゴタしています。

 

どこでいつやるにしても、誰が出るにしても

日本選手には瀬古さんのような強気のレースを

見せて欲しいものですね。

 

それではまた!

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